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1.成立から衰退までの経緯
「紅茶」はもともと中国福建省武夷山脈内で、焼畑農業をしていた山地部族が作っていた発酵茶を起源とします。 その後18世紀初めに中国からイギリスに輸出され、イギリス人に愛飲され始めました。大英帝国時代のイギリスで 嗜好品として飲まれるようになった紅茶は、しばしば、歴史の表舞台に立ち、政治的意図を持って紛争や戦争に利用されることとなりました。 (イギリス×清国のアヘン戦争、アメリカ独立のきっかけとなったボストン茶会事件など) このように欧米の人々を魅了し 嗜好品となった「紅茶」は、わが国でも 明治時代初め 政府が奨励した輸出産業で「茶」が外貨獲得作物として欧米に輸出されている頃、日本茶輸出の拡大政策として製造されるようになりました。 本県の紅茶生産も、そういった外貨獲得政策の輸出貿易のために始められました。 もともと筑後国福島町(八女市本町)では、江戸時代末期には長崎を通じ「茶」が海外へと送られていました。明治中期には「紅茶」としても送られるようになっていったのです。 八女市史には、明治六年(1873年)県の指導で八女市山内の大津簡七が初めて紅茶の生産を 行ったとあります。この頃から八女郡内における紅茶製造の奨励はじまり、大正年間まで当 地方の茶業は紅茶を作る歴史のようだったといいます。 大正時代に入るとイギリスは植民地で、プランテーション農業を行い、アッサム種の紅茶を栽培、高品質で安価な紅茶が大量に流通されるようになります。それは国際市場(特にイギ リス市場)を席巻し、日本国内の紅茶輸出はユーラシア大陸(ロシア、アフガニスタンなど) に向けられることになりました。 しかし結果として世界最大の紅茶消費国 イギリスが紅茶生産に踏み切ることと、紅茶を 飲む習慣のなかった日本がその嗜好を生産に反映させることができなかったことは、次第にわが国の紅茶産業の衰退を招く要因になっていきました。
2.国産紅茶品種の登場 一方 昭和初期に日本政府は紅茶製造技術の向上を目的に、鹿児島県枕崎の紅茶試験場でアッサム種と中国種を交配して日本の気候風土に合った、紅茶用茶樹の育成をはじめます。結果 戦後には、日本でもアッサム種にまけない紅茶品種が生まれていきました。 しかし昭和46年(1971年)、政府の農産物輸入自由化政策により関税が撤廃され、大量の安価な外国産紅茶が輸入され始めると、国は緑茶転換助成金を紅茶農家に支払い、国産紅茶産業政策の幕は下りました。 その結果、まだ流通に乗り切れていなかった国産紅茶品種は、日の目をみることなく消えていきました。 近年、日本では食のグローバル化が進み、食卓の欧米化によって油脂分の多い食事が日常になりました。食後の飲み物も「緑茶」よりも、むしろ口中の油脂分を流すため、より高温で抽出できる「紅茶」や焙煎香が強い「コーヒー」、「ほうじ茶」に主役が移ってきました。 これを受け日本各地でも再び国産紅茶が少量ですが作られるようになって参りました。 「八女茶」の茶業青年の間でも 八女産地紅茶研究会が組織され、日本の茶業界に残された「国産紅茶」という産業遺産をどうのように活用し発展させていくのか、テーマとして今後活動して参ります。
出典元:許斐本家 このみ園
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